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皇位継承をねらっていた聖徳太子の叔父

『日本書紀』が伝える聖徳太子の「本当の姿」に迫る!④

 それが、堅塩媛の妹でやはり欽明の後宮に迎えられていた小姉君(おあねのきみ)が生んだ皇子の一人、穴穂部皇子(あなほべのみこ、聖徳太子の叔父)であった。彼は用明の妻であった穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の同母弟であり、その縁もあって宮廷内で重きをなしていたようである。また、有力豪族の一人、物部守屋の後押しもあって、穴穂部は用明を差し置いて自身の即位を強硬に主張したのであった。だが、それにもかかわらず有力豪族の合議は用明擁立で決し、穴穂部の即位は見送られることになった。

 それでもおさまらぬ穴穂部は、翌年(586年)、前皇后である推古が敏達の亡骸を安置した宮殿(殯宮)に奉仕していたのを襲い、強引に夫婦になろうとしたのである。これは、前皇后の夫になることで自分の即位の可能性を高めようとしたものとみられる。しかし、それは妨害があって未遂に終わる。穴穂部は彼の暴挙を阻止した三輪逆(みわのさかう)の無礼を許さず、物部守屋とその私兵を率い、逆を討ち果たそうとした。逆が用明の王宮(磐余池辺双槻宮)に逃げ込むと、そこが皇居であることを憚らず、昂然と兵をもって取り囲んだのである。

『日本書紀』はこれを「穴穂部は天皇になろうとして、逆の討伐を口実に磐余池辺を包囲した」と記す。これによれば、穴穂部の真のねらいは自身の皇位継承にあったというわけである。とすれば、磐余池辺双槻宮には穴穂部の即位の障壁となる者がおり、穴穂部とすればその者を討たねばならなかったことになろう。それは天皇たる用明以外には考えがたい。用明はこの翌年4月に亡くなるが、彼はこの時の穴穂部と守屋の襲撃がもとで健康を損ない、死に至った可能性がある。

〈次稿に続く〉

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遠山 美都男

とおやま みつお

昭和32年(1957)、東京都生まれ。学習院大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科博士後期課程中退。博士(史学)。著書に『聖徳太子の「謎」』(宝島社)、『日本書紀の虚構と史実』(洋泉社歴史新書y)など多数。


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